繋がれた部屋



「繋がれた部屋」の書き直しを始めました。

「繋がれた部屋」は東日本大震災の頃に書いたもので、読み返すと、その時の情景と、それにまつわる記憶が蘇ります。

震災後に読んだ小説の中に、平野啓一郎さんの「空白を満たしなさい」があります。これは震災前に書かれたものです。少し内容に触れれば、今を死と直結させ線引きし、その線引きした死から生を問うという物語です。読んだ当初、これは世の様々に先行して書かれたものだなと思いました。また、その先行したものが「決壊」の受け手を担っていることを思うと感慨深いものがあります。

小説「決壊」は「空白を満たしなさい」の前に書かれたものです。その「決壊」では、主人公は最後に死を選びます。それは不可欠であり、物語上決して外すことのできない小説的結末でした。けれど、個人的には、または作家個人を考えれば、主人公は死んではならなかったのではないかと疑問が生まれす。そして私が抱いたその疑問は、次の小説「空白を満たしなさい」に引き継がれていました。おそらくは無意識的に。




「空白を満たしなさい」では、死んだ主人公は生き返ります。「決壊」での死が「空白を満たしなさい」で生き返るように。そして死から生を考えます。その生を主人公に内観させながら、家族、コミュニティと、社会に時系を設け、その時系の中で個から他の生をたどる物語と読めます。

そして、「決壊」を受け継ぐように「空白を満たしなさい」で生き返ったのは、「決壊」では殺されてしまった主人公の弟だったのではないかと私は考えます。ですので、「決壊」の主人公は兄ではなく、兄と弟の両者であり、その理由からおそらくは無意識に「空白を満たしなさい」という物語が受け手になったのだろうと、そのように思うのです。兄と弟は分かつものであり、兄にとっての羨むべき己の潜在意識であった。ゆえに弟が死ねば当然、兄は死ななければならない。分かつものとして。そして潜在的な弟は作者の無意識を利用して生き返ったのだと。




では、果たしてそれは自浄作用でしょうか。そう考えるとき、二つの小説は死を渡って繋がっているのに、強く生にフォーカスしているのだとわかります。生へのフォーカスの在り方は、人の数だけ違うと思いますが、その普遍性は人に帰着するものでしかあり得ませんから、「決壊」を受けた「空白を満たしなさい」はそのように回答を得たのでしょう。

「繋がれた部屋」で私は、二重構造を書きました。繋がれているのか、その概念に繋がれているのか。生はその狭間で何を考えるのか。ただ生きるということは、どういうことなのか。

というわけで、「繋がれた部屋」の書き直しを始めました。
村上ゆ






慎吾とゆくパラロード ʕ•ᴥ•ʔ♡



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村 上 海 図




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